17世紀前半の西洋絵画のポストカードコレクションです。
カラヴァッジョ「法悦のマグダラのマリア」
Caravaggio, Michelangelo Merisi da「法悦のマグダラのマリア」, 1606年, 油彩, 個人蔵
この絵が発見されたのは2014年。2016年に国立西洋美術館にて開催された「カラヴァッジョ展」でお披露目となり、私は同展でポストカードを入手しました。
法悦状態のマグダラのマリアを描いた絵です。法悦というのは、「①(神仏の)法を聞いて、心身の自由を得た気持ち。②うっとりするような喜び。Ecstasy」とあります。(「日本語大辞典」より)
宗教行為により一種のトランス状態に陥っている様子を描いた絵ですが、それと同時に、どうしても連想してしまうのが②の意味の方で、女性が性行為時にエクスタシーを感じているようにも見えるのです。
罪深き女がイエスの教えにより改心し、敬虔な信者となる。マグダラのマリアの一般的なイメージはそのようになっていますが、実は聖書に書かれた他の女たちの描写と混同されたもので、はっきりと聖書にかかれているのは、彼女はイエスが十字架にかけられるのを見守り、埋葬に立ち会い、磔刑後のイエスの遺体に塗る香油を持ち墓を訪れ、イエスの復活をみたということだけです。
しかしこの絵のなかの彼女は明らかに性愛、罪を連想させます。15世紀という時代に、この大胆さは驚くべきものです。
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グエルチーノ「聖母被昇天」
Guercino「聖母被昇天」, 1622年, 油彩, Chiesa del santissimo rosario
2015年に国立西洋美術館で開催された「よみがえるバロックの画家 グエルチーノ展」で購入したポストカードです。
下からこの絵を見上げると浮き出てくるような技法がとられています。展覧会では壁に立てて展示されていたかと思いますが、制作意図を考えると天井においてもよかったかな?でもそうすると準備が大変ですね。
雲や後光の陰影はドラマチックで、全体としては暗い色を使っているのですが、印象は明るく、見ていると前向きな気持ちになってきます。
白い鳩は聖霊を意味しますが、その趾をよくみてください。ちょっとかわいいですね。普段あまり意識することのない、飛んでいる鳩の趾。
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コルネリス・ド・フォス「画家の娘、シュザンナ・ド・フォスの肖像」
Vos, Cornelis de「画家の娘、シュザンナ・ド・フォスの肖像」1627年, 油彩, シュテーデル美術館
小さい子ってふてぶてしい可愛さを発揮することがありますよね。
コルネリス・ド・フォスは肖像画で知られた画家ですが、この絵は彼の娘のそんな魅力をよくとらえていると思います。
2011年にBunkamuraで開催された「フェルメール≪地理学者≫とオランダ、フランドル絵画」で入手したポストカードです。
かつて子どもは「小さい大人」と解釈されて、子ども服という概念はなく、大人の服のミニチュアを着ていたとのこと。この絵でもきっちりとした服を着ていて、それがいたずらっぽい動きとはミスマッチで、かえって可愛さを引き立てています。
首飾りや腕飾りは、乳幼児死亡率が高かった当時、神のご加護を祈り、魔除けを意味していたのでしょう。
その手で遊んでいるのは何でしょう。お菓子らしいのですが、羊の骨を着色した当時のおもちゃなのかな?と私は思いました。
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グイド・レーニ「アタランテとヒッポメネス」
Reni, Guido「アタランテとヒッポメネス」, 1618-1619年, 油彩, カポディモンテ美術館
2010年に国立西洋美術館で開催された「カポディモンテ美術館展」で購入したポストカードです。カポディモンテ美術館のほか、プラド美術館にも同主題の絵があります。
グイド・レーニは、コレクション⑥ 16世紀後半 西洋のページで紹介したカラッチ一族のルドヴィコ・カラッチに師事した、イタリア・ボローニャ生まれの画家。
とにかく構図がよい!リズム感というか、音楽みたいな感覚を感じる絵です。陰影のつけ方はカラヴァッジョの影響も感じます。
主題は、ギリシア神話の女狩人アタランテの婚約者決めレース。モテモテだったアタランテは、求婚者に対して、徒競走で自分を負かした者と結婚するが、負けた者は罰として死ななければならない、という女王様すぎる条件を出しました。
求婚者の一人ヒッポメネスは、愛と美の女神アプロディテに加護を要請。アプロディテからは3つの黄金の林檎をもらいました。ヒッポメネスは競技の最中に林檎を1つずつ転がしてアタランテの気をそらせ、見事先にゴールすることができたのでした。
この絵にかかれている林檎、小さすぎないか。品種改良されていない昔の林檎ってこれくらいだったのかもしれませんが・・・。
あと、あきらかにアタランテの方がヒッポメネスよりデカかったり、いろいろと大きさには矛盾があるように見えますが、構図最優先!ということでさほど気になりません。
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ディエゴ・ベラスケス「マルタとマリアの家のキリスト」
Velázquez, Diego Rodríguez de Silva y「マルタとマリアの家のキリスト」, 1618年, 油彩, ロンドン・ナショナル・ギャラリー
数えきれない名作を描いたベラスケス。私はベラスケスのポストカードを6枚持っていますが、そのなかで一番地味でヘンだと思われる一枚をご紹介します。
2020年に国立西洋美術館にて開催された「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」にて入手したものです。
ベラスケスが若いころ、故郷のセビーリャで描いた作品です。向かって左手前の若い娘と老婆が食事の支度をしており、右には新約聖書内の「マルタとマリア」※の話を描いた絵が飾ってあります。
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イエスがある村に入り、マルタとマリアの姉妹が住む家に歓迎される。マリアはイエスの足元に座り、その話を聞き入るばかり。マルタは、もてなしの準備(多分、香油や食事の準備)で忙しく立ち働いている。マルタはイエスのそばに近寄りこう言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(下線は「ルカによる福音書10:40-42」)。
私はキリスト教系の高校に通っていたので、週に1回聖書の授業があり、この話を知ったのですが、当時どうしても納得がいかなかった。イエスの気持ちもわかりますが、マルタみたいな、場を整えられる地に足のついた事務処理能力をもった人間がいなかったら、この世はめちゃくちゃになってしまいますよ。せめて、マルタのことを少しフォローしてあげてから、マリアのことをほめてほしかった。
この話は「活動的生活」(=マルタ)と「観想的生活」(=マリア)の対比になっているといわれ、さまざまな解釈がなされています。ちょっと難しいのでここでは触れません。
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この絵、結局何が言いたいのか?明らかに不満そうな顔で食材の下準備をする、おそらくメイドである若い娘が「マルタ」で、偉そうに教えているっぽい老婆が「マリア」なのか?ちょっとしっくりこないですね。
無理やりこじつけるならば、レシピに従ってきっちりと事務的に料理しようとする若いメイドにベテランメイドが、大切なのはおもてなしの心なのよとか観念的なことを老害的に言っているのか・・・そんな卑近な内容ではありませんね、多分。
意味がわからない絵って、ずっと心にひっかかりますね。そういう絵が好きです。
次回は、17世紀後半の西洋絵画のポストカードをご紹介します。
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